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鞆の浦 花魁絵巻 第五章

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この土日には第5回目となるありそ楼主催の「鞆の浦 花魁絵巻」が開催されます。


世の中、変身願望が強い女性が多いんですね。
このイベントも好評のまま今回が第5回目となります。

今回もありそ楼の店主の三藤さんにお願いされてポスターを製作しました。

でも今回はちょっと手抜き?、、、とは分からないでしょうが(笑)、、、わずか1時間程度で作りました(笑)

出来栄えは前回に比べればちょっと見劣りしますが、、、それなりにまっとまっていませんか?(^g^)

かつては遊郭があった鞆ですが、実際に茶屋まで客を迎えに行った花魁道中が行われたかどうかは分かりませんが、、、日曜日の午後2時頃からは花魁行列もあります。

日曜日はあいにくの雨のようですが、番傘を差した花魁の姿はすごくステキですよ!


私は、、この土日は仕事の関係の旅行で四国の海に遠征の為、このイベントには参加出来ませんが、お時間が合う方はぜひ!!

歴史を守る人々

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沼名前神社の境内から眺めた臨済宗小松寺
長年の雨漏りによって屋根の骨組の傷みが激しくなった為、屋根の葺き替え作業が行われていました。
 
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作業を行っているのは、地元でおなじみの鞆建設。
町内の古い町家などの修繕はかなりの数をこなしています。
 
 
よく見ると、桔木(はねぎ)と呼ばれる 深くせり出した屋根を持ち上げて優雅に見せる為の部分の木材などはかなり腐食していて、また屋根板も手で簡単に割れる程になっていたようです。
 
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今日も地元の鞆建設の人々は、鞆の歴史を守る仕事を行っていました。
 

今後の観光鯛網を考える

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鞆の春の風物詩ともなっている観光鯛網。

しかし近年はめっきり人気がなくなり、昨年は観光協会(現 観光コンベンション協会)が主催者となって初めて観客数が1万人を割り込んだのは新聞などでも報道され、今後の観光鯛網のあり方を問う状況になっていました。
 
今夜は今年の観光鯛網はどう変わったのか?今後、観光鯛網が生き残る為には何が必要なのか?を考えてみたいと思います。

今夜はかなり辛口の内容です(苦笑)
 
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【今年の観光鯛網のパンフレット】
 
で、気になる今年の観光鯛網はどう変わったのか?
、、、???
 
まず大きな変化が従来は4月末の連休から5月末(近年が5月後半)まで行われていた会期が大幅に短縮されたことです。
会期を短期集中型にし、1日当りの観客数を多くする為とのことですが、どうみても不採算による事業規模の縮小としかみてとれません。
 
パンフレット右下の黄色の網引き体験、網船高台からの見学(抽選)は昨年も行っていたので、新しい企画ではありません。
 
また今年は案内のパンフレットが見開きの豪華なものになりました。
 
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【今年の観光鯛網のパンフレット】
 
このパンフレット、福山市内のセブンイレブンに置いていたのでもらってきたのですが、観光鯛網を観覧する方には有難いことかもしれませんが、ではこのパンフレットでいったい何人の集客力の改善が期待できるのか?
 
具体的に今年の観光鯛網で変わったこと、、、それはこのパンフレットが見開きになったこと、、、以外には見い出せませんでした。
 
 
本来、観光のプロであるはずの観光コンベンション協会が打った手は時代の流れに全く対応できていないとしか言えないお粗末な「規模の縮小&内容の現状維持」でした。
 
 
では観光鯛網で何が問題なのか?
 
先ず筆頭に挙げられるのが鞆の人ならばほとんどの人が口にする「やらせ」「なんちゃって」の擬似漁です。
 
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【真鯛以外の魚が入らない魔法?の網】
 
こんな「やらせ」をしていて現代の「本物志向」に対応できるはずがないのです。
 
でも、近年の鞆沖では真鯛が取れないから本当の漁をしては開催できないのでは?、、、と大半の方が言うと思います。
 
実は瀬戸内海における真鯛の漁獲高は大幅に改善しており、1970 年の2,033 トンから2010 年には4,410 トンと2 倍以上増加しています。
この要因としては瀬戸内海の海水が以前よりもきれいになったことにより、濁った水よりも、澄んだ海水を好む真鯛の育成に適していることが大きな要因とも言われています。
 
また近年ではスーパーに行けば瀬戸内産の天然真鯛よりも養殖真鯛の方が値段が高いという逆転現象さえ起きています。
これは漁獲高の改善による卸値の低下と同時に、養殖技術の発達で天然真鯛以上に養殖真鯛の方が脂が乗って味が良いからなのです。
 
 
もしも本当の鯛網を行うとするならば、ある一定の海域に「鯛網専用の禁猟区」を設けて放流事業などと併せて天然資源の確保を行うことも、今後の選択案として考えるべきだと思います。
 
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【戦前の観光鯛網の写真ハガキ 大型の真鯛も入っている】
 
多少、漁獲が減ったように見えたとしても、「本当の鯛網」を行った方が、より臨場感があり、「本物志向」になり、そして瀬戸内特有の多種多様な魚の水揚げがあり、観覧する人が楽しめるのではないでしょうか?
 
 
でも「本当の鯛網」だけではまだ足らないと私は思っています。
では何が必要なのか?
 
観光鯛網で一番欠けていること、それはリピーターを増やす努力です。
 
観光鯛網を一度は行ったことがあるが、毎年行くという人はほとんどいないと思います。
 
「なぜ?」かは一度観覧した方ならばよく分かると思います。
ではどうすればリピーターを確保できるか?
 
それには「本物志向」と同時に「観光鯛網にしかないもの」を作り上げることだと思います。
 
 
その一番の近道は、「獲れたての海の幸をその場で料理して食べさす」ことだと思います。
 
福山市内などには「活き造り」はありますが、獲れたての魚をその場で食べさせるというようなサービスは一部の小規模の遊漁船しか行っていません。
 
一つの案としては、かつて行っていた鯛網見学の後に阿伏兎観音沖へのクルージングに、獲れたての魚の昼食などをコラボさせることです。
 
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【観光鯛網の遊覧船の船内 見学が終わるとすることがない】
 
獲れたての魚はなにも真鯛だけでなくてもいいはずです。
なぜならば真鯛よりも美味しい海の幸は他にもたくさんあるからです。
 
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【もしもこんな獲れたての海の幸がその場で振舞われたら?】
 
 
写真は私が鞆の海で釣ったり、獲ったりした海の幸の料理ですが、お店で売っているどんな高級食材でも鮮度では絶対に負けませんし、なによりも美味しいものです。
 
鯛網で獲れた魚と、事前に朝、漁師たちが獲った海の幸で料理を船上で振舞う。
こんな至福な時を過ごせるならば、かなり高くても人は集りますし、なによりも料理目当てでリピーターも必ずたくさん付くはずです。
 
一日一回のみの開催で、実現すればおそらく大人¥7,000~¥8,000の予約制でもかなりの集客があると思います。
こうすれば、短期集中型の意味もありますし、なによりビールなどの酒類もかなりの注文になると思いますので、サプライズの売上なども十分確保できると思います。
そして鯛網だけなく、鞆の魚のブランド化にも大きく寄与するのではないでしょうか。
 
とにかく現代の観光スタイルは地元の人々が食べている美味しいものが食べたいという「本物志向」に大きくシフトしてきています。
 
そのことを踏まえて今後の観光鯛網を考えていかなければ鯛網に未来はないと言わざる得ないと思います。
 
かつて大正後期に、鞆出身者の実業家である森下博氏の資金援助で始まった観光鯛網。
 
観光鯛網が始まった頃のように、「鞆に鯛網あり!」と言わせる為には、柔軟な発想で鞆の鯛網にしかないものを顧客に提供をしなければないないのではないでしょうか。

資料のデーター化作業

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週末は仕事のお付き合いの延長で、四国に魚釣りの予定でしたが、豊後水道の海がシケ模様とのことで急遽中止に。

今日は沼名前神社や資料館にて、秋の森下博展に関する調査や、資料館に寄贈されている鞆の昔の写真のデーター化などをしました。

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しかし資料館には膨大な鞆の資料がありますが、資料館友の会のメンバーも高齢化が進み、実働部隊は僅か数人になってしまっています。

古文書部会の株本部会長らが、資料館に寄贈された膨大な鞆の資料の目録を日々作る作業を行っていますが、今後、これらをどう活用するか?

この先、株本部会長らの後を継ぐことになるであろう友の会最年少の私にとっても、なかなか答えは出てきません。

資料館が所蔵する膨大な資料の活用について、より鞆の住民の方々がこの町に愛着と誇りを持てるよう、そして福山市民の大切な資産として活用できるよう、諸先輩方と話をしながら有効活用をしていきたいと思っています。

高泉の扁額

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臨済宗妙心寺派の古刹 瑞雲山安国寺の釈迦堂には「大雄宝殿」と書かれた立派な扁額が掛けられています。
 
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大雄とは釈迦を意味し、この堂が釈迦堂であるということを示しています。
 
この扁額の書は江戸時代前期に活躍した明から渡来した僧侶 高泉(高泉性敦~こうせんしょうとん)のものと言われています。
 
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【高泉性敦 肖像画】
 
高泉は江戸時代初期に日本に渡来し、京都の黄檗宗大本山 萬福寺の第五世住持となり、また五代将軍綱吉に説法をするなど、仏教会にその名を残す高僧です。
 
その高泉の扁額がなぜなのか?ここ安国寺にあります。
 
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【扁額に記された高泉の名前(号)と落款 】
 
同じ禅宗ではありますが、なぜ黄檗宗の高僧の高泉の扁額が、臨済宗妙心寺派の末寺 安国寺にあるのか?
 
関ヶ原の合戦前年の1599年には安国寺は毛利輝元を大旦那として、安国寺恵瓊により釈迦堂が改築されましたが、その後の福島時代は住職不在となり荒れ果て、水野家の時代となり再び住職を置くようになりました。
 
この扁額が作られた時代は高泉が活躍した水野家の時代であるのは間違いないと思われますが、水野家は福山藩主初代の勝成、三代藩主の勝貞は菩提寺が曹洞宗の賢忠寺、二代藩主勝貞は日蓮宗の妙政寺と、臨済宗ならびに黄檗宗とはあまり関係がないようです。
 
ではなぜここに江戸時代前期の黄檗宗の高僧の高泉の扁額が存在するのか?
 
ちょっとしたミステリーですね。
 
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さくらんぼ

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先日、平方面を歩いていたら、、
旧平保育所にこんな看板が、、

さくらんぼ!

いったいどんなことするんだろう?

郷土を愛する元気な子供たちの為になるといいな (^.^)

鞆町旗

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家のパソコンが壊れてしまい、メール受信もネットも出来ない状態に(泣)

で、とりあえずスマホに保存しているネタで、、、
(^◇^;)

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今夜紹介するのは旧鞆町の町旗です

長い間、鞆町章及び鞆町旗を探していましたが、なかなか見つかりませんでした。
鞆町章は間違いなく巴がモチーフだと思っていましたが、一つ巴は以外でした。

でもやっぱり巴紋が鞆らしくていいですね(^-^)

未知なる世界への憧れと挑戦

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今日は広島県立歴史博物館で開催が始まった企画展「未知なる世界への憧れ」に招待され行ってきました。

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福山市出身で国内屈指の古地図コレクター、守屋壽(もりや ひさし)さんが約30年に渡って収集してきた、「守屋コレクション」848点が広島県立歴史博物館に寄託された話題は、新聞等でも大々的に紹介されましたが、そのお披露目会が今日24日から広島県立歴史博物館と、鞆の浦歴史民俗資料館で同時開催されます。

県立歴史博物館だけでなく、鞆の資料館で同時開催されるのは、実は守屋さんたっての希望ということで、本当に有難い限りです。


今回は資料館の一員として受諾記念レセプションの招待もいただき、会社に許可を得て参加させていただきました。

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記念レセプションで初めて守屋さんにお目にかかった、、、と思いきや、、
挨拶をする守屋さんを見て、、

このオッチャン、、以前、鞆の町内で大話したことあるわっ!!って記憶が、、(笑)

守屋さん、、ちょくちょく地元福山に帰郷する度に、鞆に足を運ばれてたようです。
油売り(笑)の私ですから、きっと気軽に声をかけて話をしたんでしょう。

でも顔と声はよく覚えがあるのですが、、さて、何処でお会いしたか?(笑)

記念レセプション後もずっと気になってしまいます(^◇^;)

冒頭にも書きましたが、地元福山及び鞆に関するコレクションは鞆の浦歴史民俗資料館の方で展示しています。
ぜひ足を運んでみて下さい!


【守屋コレクションの概要】

「守屋コレクション」は、16世紀から19世紀にかけての鎖国時代の古地図が中心。
日本が西洋で伝説の国「ジパング」として言われた時代に想像で描かれた地図から、大航海時代を経て次第に明らかになる地図など、日本の形の変遷をたどることができる西洋製古地図は個人コレクションとして国内随一。
さらに、行基図や伊能忠敬、石川流宣、長久保赤水などの日本人による江戸時代の地図も網羅されており、ケンペル、シーボルトが鞆の浦への寄港を記録した著作、幕末の福山藩主阿部正弘とも関連の深いペリーの日本の報告書、福山城下の絵図や朝鮮通信使、マニアなところでは福山藩主 水野勝成が鞆奉行の荻野重富に宛てた書状なども、、鞆の浦に関連する郷土資料など現在では入手困難な資料も多く含まれています。

(内訳) 西洋製の古地図類 133点 日本製の古地図・絵図類 210点 西洋の近世日本を伝える絵画及び書籍 94点 朝鮮通信使・琉球関係資料 21点 古典籍 84点 その他の資料(絵画資料・引き札・古写真など)・参考図書 306点 合計 848点

、、、ヨダレが出そうσ^_^;

京都仁丹楽会

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2月11日の森下仁丹の町名表記の琺瑯看板の設置に関しては、このブログでも何度も紹介させて戴きましたが、私がこの仁丹の琺瑯看板の鞆への設置を思いたったのは、実はこの京都仁丹楽会のブログを見たのがきっかけでした。
 
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このHP、、、京都に現存する戦前の仁丹の琺瑯看板の情報を中心に、仁丹に関する様々な話題が満載のブログなんです。
 
世の中、本当にマニアな方がいるものだと感心してしまいました。
 
もちろん、、、
 
 
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鞆での琺瑯看板の贈呈式の話題も掲載されていました。
 
記事では、京都と同じデザインなので、なんか急に京都と鞆が姉妹都市になったようだと書かれていました(笑)
 
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このブログ、仁丹の琺瑯看板のことならなんでもおまかせ!という感じの面白い内容です。
 
みなさんもぜひ一度覗いてみて下さい♪
 
 

久しぶりの平の谷

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久しぶりの日の出でしたが、太陽もだいぶ北に傾く季節になってきました。
なにげなくグリーンラインの平の谷へ。
 
今日は水平線辺りはうっすらともやがかかっていたので、真ん丸のお日様が上がってくる天気です。
 
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う~っすらと真ん丸のお日様が、、、分かりますか?
 
 
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ズームアップするとご覧の通り。
もうここからでも仙酔島の山頂辺りから昇ってくる角度まで北になっています。
 
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港には鯛網の母船が既に浮かんでいました。
 
もうすぐ5月ですね。
 
 

第36回 歩け歩け大会 鞆寺社巡り

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今日は第36回の歩け歩け大会がありました。
心配された天気でしたが、天気予報は大外れし快晴に(笑)
 
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今回も前回と同じ300年前の元禄地図を使ってのウォークラリーですが、今回は鞆の人から「ゆうえんち」との名前で親しまれている中央公園がスタート&ゴールとなり、鞆の19の寺院と3つの神社を回る寺社めぐりとなっています。
 
朝9時過ぎ、中央公園で受付を済ませスタート。
沼名前神社では軽トラ祇園市が開催されていてウォークラリーの人と相まって多くの人が。
 
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鞆の北部の臨済宗正法寺ではかわいいお地蔵さまがお出迎え。
 
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臨済宗静観寺ではきれいなチューリップが訪れる人々の心を和ませてくれます。
 
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高台にある医王寺まで上がると、ちっと汗ばむくらいの陽気です。
 
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降りるのも年配の方にはちょっと大変かも、、、
 
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医王寺を下り、西の淀媛神社まで行くと、みなさん、さすがに疲れが、、、
 
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地蔵院の階段もけっこうボディーブローのように効きます(泣)
 
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終盤の要害の坂道はもう拷問に近い感じ、、、(泣)
 
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あと少し!!
 
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約1時間半にゴールの中央公園に到着!!
 
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19ケ寺と3社を回り身体を清めた後は、、、
スーパードライで清め〆、、(笑)
 
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好天に恵まれ、楽しく回れた今日の歩け歩け大会でした。
 
 

三日月と弁天さん

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先日の日曜日の朝は、ちょっと変わった明け方の風景に挑戦してみました。
その風景とは、、、弁天さんと三日月です。
 
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満月と弁天さんの風景はよく見ますが、明け方の三日月と弁天さんの写真は見たことがありません。
ならいざ!と朝4時前にシーサイドホテルの前に行くと、、、
なんと!私と同じ考えの人が2人もいました(笑)
 
で、満月の時は弁天さんの祠堂のすぐ横から出てくるお月様ですが、、
三日月の時は、、、
 
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そうなんです。
かなりずっているんです、、、(泣)
 
 
どうりで、弁天さんの祠堂のすぐ後ろに大きな三日月が昇ってくる写真がないはずです。
 
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こうしてみるとより分かりやすいかもしれません。
三日月は仙酔島の山頂である大弥山付近から昇ってくるんです。
 
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無理やり真上にくる場所に行くと、、、祠堂が島に隠れてシルエットが浮かんできません。
 
世の中、うまくいかないもんですね(苦笑)
 
 

35年ぶりの烏ノ口展望台

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火曜日の祝日は大潮だったので、彦浦のもう一つ裏にある小松浦まで貝を捕りにいきました。
その道の途中に烏ノ口岬にある展望台へと行く別れ道があります。

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小学生の頃、ここでキャンプをしてペルセウス流星群を観察したことがあります。

もう35年も前の話になりますが、それ以来ずっとこの展望台を訪れることがありませんでした。

あの頃と変わらない懐かしい風景がそこに広がっていました。

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いざ小松浦へ

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29日の祝日は、大潮だったので久々に仙酔島の小松浦へ。

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小松浦から烏ノ口岬の下の岩礁混じりの浜へ。
ここが本日の仕事場です(笑)

先ずはこれ!

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イガイです。
セトガイとも言うのかな?
ムール貝の仲間です。
ここ小松浦は潮通しが良いのでイガイの成長が良く、バケモノみたいな大型のものも捕れます。
僅か30分くらいで30個ほど捕ったので、イガイ捕りは終了!

次のミッションは、、、
これです!

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まんじゅう貝(ウチムラサキ)に、本ミル貝、そしてイシワリ(オニアサリ)です。
最近は誰も掘らない為か?土が非常に硬く、貝類が生息しにくくなっているように感じます。
やはり畑と同じで、ある程度耕した方が良いのでは?という印象を受けました。

1時間強の格闘の末、これだけ捕れました!

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途中、こんな大きな岩ガキも発見!

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思わずペロッて食べちゃいました
(笑)
ブチうま!!

たくさん捕れましたが、、、

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かなりの重量、、(汗)

えっちら、おっちら運んでやっとの思いで帰路に着きました。

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帰ったら貝三昧の晩ご飯!

贅沢三昧の料理の映像はまた後日!
(^。^)

緊急速報!

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沼名前神社参道沿いの真言宗大観寺で火災とのことです。

ご住職ならびにご家族の安否が心配です。

みなさんが無事であることをお祈りしま。

続・速報 大観寺火災

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昨夜、火災が発生した真言宗大観寺ですが、残念なことに本堂及び庫裏が全焼してしまいました。

ご住職様やご家族の方々、ならびに檀家の方々に心よりお見舞い申し上げます。

不幸中の幸いか、人への被害はないようでしたのがせめてもの救いでした。

私は大観寺の檀家ではありませんが、寺院再建の為に私にも出来ることがあれば、微力ながらお手伝いさせていただきたいと思います。

五月晴れ

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この4連休の前半は本当にいい天気でしたね。
 
ちょっと散歩をかねて淀姫神社まで行ってきました。
 
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道の途中、私の大好きな風景。
焚場の小路からの海の風景。
 
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何度見ても心が落ち着きますね。
 
さらに進んで、平の町からは、、、
 
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焚場からとはずいぶん違った眺めになります。
 
そして淀姫神社へ。
 
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絶景~ぃ!!
 
ここからの眺めは本当に気持ちがいいですね!
 
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鯛網の母船の大漁旗も気持ちよく五月晴れの空に泳いでいました。
 

秋祭りの準備

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今年の渡守神社の秋の例祭は我が西町が当番町を務めます。
祭りまでまだ5ヶ月ありますが、人出の少ない我が西町はもう準備に入りました。

 先ずは明かしもので使う行灯の張替えからスタートです。

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まだまだ日にちがあるようですが、夏祭りに入る前にある程度進めておかないと
後が大変になってきます。

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少しづつですが、町内の方々に協力して戴きながら進めていきたいと思っています。

小室浜での初キス釣り

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連休最後の今日は早朝から小室浜へ今年最初のキス釣りに行ってきました。

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キスは早朝が一番!
まだ暗いうちから釣り場に到着。
5本針のキス仕掛けでやってみました。

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タックルはいつものルアー竿。
ここはポイントが80m以下の為、いつもルアー竿でキス釣りをします。

今日はまだ水温が低い為でしょうか?
比較的遠くでのアタリが集中しました。

今朝は5時前から釣っていたのですが、満潮が午前3時だった為、6時過ぎには潮が完全に止まり全くアタリがなくなりました。

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1時間強でリリースを除きキス10匹と少なめの釣果でしたが、久しぶりに手元にブルブルっとくるキス独特のアタリを楽しむことが出来ました。

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釣ったキスは今夜の晩ご飯に。
美味しくいただきました。

御茶屋の謎に迫る ~ 備後国鞆港四方之図から見える御茶屋の姿

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以前から研究を進めている鞆の御茶屋の続編です。
御茶屋とは備後福山藩の宿泊・迎賓施設で、水野時代に鞆港の中央部、現在の西町に造営されました。
 
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今回、その御茶屋の姿を記した大変貴重な絵が載った古本を資料館の通堂館長が入手し、コピーすることが出来たのであらためて紹介します。
 
これです。
 
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この絵は守住貫魚という絵師が天保9年(1838年)に描いた「全国名勝絵巻」のうち「備後国鞆湊四方之図」というものです。
 
御茶屋付近を拡大してみます。
 
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写真右の部分が御茶屋です。
絵が天保年間の為、写真左の部分には安政年間造営の常夜灯はまだありません。
以前からこの絵の存在は知っていたのですが、見えにくい白黒コピーしかなかった為、御茶屋の部分がぼんやりとしかしていませんでした。
 
さらに拡大してみます。
 
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過去の地図での位置などから、石垣の中央に御水門と呼ばれる雁木(階段)がある部分が御茶屋です。
こうして見ると、御茶屋は東と西に大きく二つに分かれていたことが分かります。
 
ただ写真左の土塀のある大きな入母屋造りの二棟の屋敷が主屋で、写真右の建物は土塀もないことからなにか別の用途で使われていたようにも見えます。
 
以前も紹介しましたが、鞆の浦歴史民俗資料館が所蔵している江戸時代後期の鞆港を記した屏風絵「鞆浦図并対潮楼石摺」にはこのような形で御茶屋が描かれています。
 
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先に紹介した絵とは若干屋根の向きが違いますが、大きく二つの入母屋造りの建物が並び、その中央部に御水門があるのは同じです。
 
まったく違う絵師によって描かれた二枚の江戸後期の絵に記された御茶屋の姿はほぼ一致します。
 
地図で見る敷地から推測しても相当に大きな建物であったことが理解できます。
 
江戸時代、200年以上に亘り鞆の中央部に存在した御茶屋の全貌は謎の部分が多く、詳細があまり分かっていません。
 
そういう意味では、この絵は大変貴重な御茶屋の姿を伝えてくれました。
 
今後もこつこつと御茶屋に関する資料を探し、分かればこのブログで紹介させていただこうと思っています。
 
 
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