先日の資料館での講演の続きです。
江戸時代は現在の二層の楼閣建築の弁天祠堂ではなく、平屋入母屋造りの小規模な祠堂であったことはお分かり頂けたと思いますが、では現在のような二層の優雅な楼閣建築となったのはいったいいつだったのでしょうか?
時代を遡ってみます。
先ずは現在の祠堂は築85年、昭和5年に広島県の予算で建て替えられました。
それまでの弁天祠堂が倒壊寸前となってしまったためです。
これは改築当時の弁天祠堂(福寿堂)の棟札、正式には地鎮祭の時の御札です。
昭和4年11月に起工されていることが分かります。
願主は広島県知事の名前になっています。
それ以前はどんな祠堂だったのでしょう。
この写真は大正末期頃の写真です。
現在と違うのがお分かりでしょうか?
もっと拡大した写真がこれです。
屋根は本瓦葺き、壁は白漆喰の二層の楼閣建築です。
現在のものより立派かもしれません。
この弁天祠堂(福寿堂)の登場によって弁天島を中心に、後ろの仙酔島、皇后島と、海が織り成す箱庭のようなほぼ現在と同じような風景が誕生しました。
しかし大正から昭和になる頃には、この優雅な形の福寿堂は倒壊寸前となっていました。
この写真は昭和初期頃のものだと思われる福寿堂の写真ですが、よく見ると屋根に大穴が開いていることが分かります。
屋根もかなり波打っていて、かなり危険な状態だとひと目でわかります。
このために福寿堂も建て替えられたようです。
ではこの二層の優雅な楼閣建築はいつ建ったものなのか?
そのヒントが本尊の弁才天の厨子の中にありました。
弁才天を納めている場所の金箔を貼った板の裏面に「弁才天祠縁起」という縁起文が出てきました。
これです。
辨才天祠縁起
備後國鞆の浦百貫島辨才天祠ノ濫觴ヲ尋ヌルニ其ノ由来既ニ遠ク随テ草創ノ年代モ詳サナラサレトモ
古来福徳ヲ授ケ海上ノ安穏ヲ守護スルノ霊験殊ニ著シキヲ以テ賽客為メニ趾ヲ断タス正保元甲申歳春三月当時町ノ町奉行荻野新右衛門新ニ堂宇ヲ再建シ名ケテ福壽堂ㇳ云フ
遠近ノ景仰益々深ク其後元祿九丙子歳修理ヲ始メトシ再三之レヲ修築ス而シテ最近ノ堂宇ハ實ニ萬延年元庚申歳ノ改築ニ係ハリ年ヲ閲スル僅ニ七十年ヲ出テサレトモ風雨ノ為メ朽廃殆ント傾倒ニ近カランㇳセシカ
偶々昭和三年冬百貫島カ内務省名勝地ニ編入サルゝニ及ヒ廣島縣ハ特ニ萬金ヲ投シ式ヲ桃山様式ニ採リ二層朱欄ノ堂宇ヲ建立セリ于時昭和四己巳歳冬十月ノコト也然ルニ本尊ノ損傷甚シキヲ憂ヒ之レヲ修理セシニ補工技ヲ缺キ為メニ佛徳ノ尊巌ヲ失ヒ奉ラントセシカハ信者相謀リ堂宇ノ修築ㇳ共ニ河内ノ國ヨリ奈良ニ移ラセ給フ由緒深キ古佛ヲ勧請シテ之レヲ奉祀ス其尊様ヲ拝スルニ誠ニ顔容端巌ニシテ八臂荘厳ノ霊像ナリ而シテ従来ノ佛体ハ之ヲ秘佛トシテ別ニ堂内ニ安置シタリ爾云
昭和五年庚午歳五月八日
信徒総代 森田友十郎 益田兼松
鞆町長 高橋泰一 桑田貞治郎
後援者 鞆校長 高山秀雄 粟村茂吉
これによると弁天祠堂は正保元年(1644年)に荻野重富が再建して以降、
元禄9年(1696年)の修理をはじめとして再三修理したとあります。
そして注目すべき記述に「最近の改築は万延元年(1860年)」とありました。
昭和4年の福寿堂改築の棟札の昭和4年(1929年)を遡ること69年前の話です。
元々、波浪暴風が激しく建物には過酷な場所である弁天島なので、頷ける年代なのですが、弁天島を調査した我々資料館友の会の調査隊には、なぜかこの万延元年(1860年)改築に疑問を感じました。
なぜか??
それは数少ない弁天島に残る建造物など三つにある共通点があったからです。
これです。
これら三点の共通することは下記の通りです。
1.すべて慶三年(1867年)の寄進である。
2.大坂屋は関町の商人で、江戸時代を通じて弁才天の世話人である。
3.東濱の仲使(港湾労働者)は主に廻船問屋の大坂屋の仕事をしている者が
多くいた。
実はこの弁天島には明治以前のものはこの三点の他には百貫島伝説に登場する九重塔婆 文永8年(1271年)と、伝 沈 惟敬(しん いけい)石碑 ※文字が読めないため年代不詳の五点しか存在しません。
つまりこれだけ慶応三年に寄進物がそろっているということは、逆に考えれば慶応三年にこの弁天島で大きな出来事があったという可能性が限りなく大きいということです。
しかも寄進されているものは弁才天を乗せるための台座である須弥壇、お参りする人の為に設置する百度石と石燈籠です。
もしも万延元年(1860年)に福寿堂が改築していたなら、これらの寄進物は改築7周年記念の物となってしまいます。
これはどう考えてもおかしいことで、やはり祠堂の改築という大きな出来事があったからこそ、多くの寄進物が存在すると考えた方がはるかに自然です。
祠堂が二層の楼閣建築となったのは、最初は花火が既に天保時代から行われていたので、天保、弘化、嘉永などの1830年代から1850年頃と勝手に想像していましたが、それを裏付ける史料は全く発見されませんでした。
弁天島に残された史料から推測する限りはやはり慶応三年(1867年)という結論に達しました。
そしてこの優雅な二層の楼閣建築の福寿堂を建てたのは大坂屋平左衛門と推測しました。
なぜか?
それはまた後日に。