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Channel: 鞆の浦日記
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海の月光仮面?

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まだ夜が明けたばかりの鞆港沖

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一隻の小型漁船が疾風のように現れます。

月光仮面?、、、ではないですね、、、


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そして淀姫神社沖の一文字付近でスピードを緩めました、、、

この船の正体は?、、、、


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小型漁船の漁師はおもむろにロープを引き上げ始めました。

上げているのは、、、

そうです!タコ壺です!

石井町の漁師さんはこうして毎朝、タコ壺を確認して回るのです。

タコは沖よりも岸近くの方が漁場となります。

毎朝見れる鞆港沖の光景です。




思い出の写真

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ちょうど二年前の10月13日に撮った思い出の写真。

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あれからもう二年。
でもまだ二年かもしれません、、、

長いようであっという間だったこの二年。

夜はずっと続かない、必ず朝は訪れる。

この夜明けの風景のように、澄み切った気持ちでこれからも頑張ろう!!



特別展の図録本 まもなく発刊

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鞆の浦歴史民俗資料館の特別展「鞆奉行 荻野重富と百貫島伝説」の図録本原稿のゲラの最終チェックを徹夜で行いました(^◇^;)

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特別展の開催までには間に合いませんでしたが、その分、今までで最高と言っても過言ではない素晴らしい図録本になっています!

是非、皆さんに見てもらいたい出来映えです!

朝の烏ノ口岬

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秋も本番。
淀姫神社のある明神山から見る日の出は、ちょうど仙酔島の南、烏ノ口岬附近から昇るくらい南に傾いてきました。

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この時期は、早朝には烏ノ口岬沖に何隻も釣り船が集まります。

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太刀魚でしょうか?それともタコ?
潮通しの良い烏ノ口岬の沖は、きっと良い漁場なのでしょう。

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これから冬至になるまで、日に日に日の出の位置がより南の走島の方へと傾いていきます。

それに伴い、冬型の季節風が吹いて南東の水平線辺りは厚い雲で覆われる日が増えてきます。

今が日の出を撮るのには良い季節かもしれませんね。



解説書の製作

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鞆の浦歴史民俗資料館の特別展「鞆奉行 荻野重富と百貫島伝説」のスペシャル企画でこの土日行われる弁天島上陸ツアーの解説書を今夜、徹夜で作成中です、、、(汗)

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この週末は幸い天気もよさそうです!!


でも上陸してスタッフの言うことを聴かない人は、、、...
本当にフカがいるのか?、、、お試しのいけにえなってもらうかな(笑)
これぞ平成の百貫島伝説かも(爆笑)

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でも、とても面白い企画が出来たと自分でも大変満足しています。
参加者には鞆の歴史の奥深さを感じ取っていただきたいと思っています。


弁天島上陸ツアー 初日

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鞆の浦歴史民俗資料館の特別展 「鞆奉行 荻野重富と百貫島伝説」のスペシャル関連行事として企画した弁天島上陸ツアー。

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ものすごい人気の企画で、多数の応募があったようです。

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今回の上陸ツアーでは、私が解説役をさせていただきました。

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近くて遠いミステリーな島、弁天島上陸に、参加された方々は大満足だったようです。

明日2日目も頑張ります!

弁天島上陸ツアー 終了

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土日で行なった資料館の特別展の「鞆奉行 荻野重富と百貫島伝説」のスペシャル企画 弁天島探訪ツアーも大盛況のうちに終了しました。

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また日曜日の午後から資料館で行われた、企画部長の北村さんの荻野重富に関する講演会も超満員の大盛況でした。

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弁天島探訪ツアーは私が解説役を仰せつかりました。

次の仕事は文化の日の私の講演会です。

飛びっきりの隠しネタを用意していますので、是非お越し下さい!

飛翔

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黄金色に輝く東の空に羽ばたく一羽の鳥、先日の日曜日朝の撮影です。


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只今、文化の日の弁天島についての講演の資料作りに奔走しています、、、

きれいな弁天さんの風景とは裏腹に、資料作りにテンパってる私です(汗)



敷居は低く、中身は濃く

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 現在、11月3日に私が講師を務める鞆の浦歴史民俗資料館の特別展「鞆奉行 荻野重富と百貫島伝説」の記念講演のプロジェクター用の原稿を連日徹夜で作成しています。

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敷居は低く、かつ中身は濃くをモットーに、連日徹夜の作業が続く毎日です。

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こういう講演では、途中どうしても眠くなるので、そこは思考を変えて独自の方法で行う予定です。

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出来るだけ分かりやすくするために、数多くの画像も掲載しています。

あと数日、ぎりぎりまでいいもの目指してがんばります!


イコモス シンポジウム

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昨日、広島県民文化センターで行われたイコモスを迎えてのシンポジウムは、私やスタッフの予想をはるかに超える反響があって驚きでした。

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このシンポジウムでは主催者からポスター、チケットのデザイン。
会場に展示する写真と上映するビデオデーターを提供しました。

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会場には我々スタッフの予想をはるかに上回る400人以上の聴衆が詰めかけました。

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また今回のシンポジウムで実感したのは、会場に詰めかけた聴衆の多くが、いわゆる付き合いで来た人ではなく、純粋に話しを聴きたいという人々が大半だったということです。

それを裏付けるように当日、会場でチケットを購入した人が80名もいたそうです。

明らかにこの福山に吹く風が変わってきているんだと実感出来ました。

グスタボ アローズ会長ほかイコモスのメンバーは非常に鞆に対して高い評価をしていました。

そして何よりこの鞆という町を生きた歴史ある町と評価していました。

世界中の世界遺産の町でも、土産ものの店ばかりしかない町もあり、そねような町とは比べものにならない魅力があると言われていました。

鞆が世界遺産になる、ならないは別の話しとして、イコモスのメンバーの共通した意見は、鞆の町の保存の為には、学術的な研究がもっともっと必要だということでした。


シンポジウムが終わり、私もスタッフの一人として歓迎会に出席させていただきました。

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アローズ会長やイコモスのメンバーが鞆を訪れ、シンポジウムに出席して非常に満足されたようで何よりでした。

また歓迎会ではブラタモリ出演などで知られるゲストの法政大学の陣内先生と有意義なお話しが出来て、良い1日となりました。

たくさんのうれしい1日 ブログ30万アクセス記念

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今日11月3日は私にとってとても有意義な1日でした。

先ずはこれ!

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現在開催されている鞆の浦歴史民俗資料館での特別展「鞆奉行 荻野重富と百貫島伝説」の関連行事で私の講演がありました。

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今日の私の講演に、鞆町はもとより、福山市内からも郷土史を研究されている先生と呼べる多くの方々にもお越し頂き、本当に有り難く感じました。

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しかも聴講にいきて頂いた人数も70名近く、ここ最近の資料館での講演では非常に多数の方々にお越し頂き本当に有り難く思っております。

講演内容の方も、出来るだけ分かり易くするために、講演すべてをプロジェクターで発表させて頂きました。
講演を聴いて頂いている方々の顔を見ても、分かり易く講演が出来ているのを実感でき、私自身も満足できました。

本日、ご聴講に来て頂いた方々に、あらためてお礼を申しあげます。

その他にも、発刊が遅れていた今回の特別展の図録が無事完成し、本日、多くの方々にお披露目することができました。

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今回の展示物の写真による紹介の他に、私が研究し続けてきた内容も掲載されています。

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中身も結構濃いものが書けたのではないかと思っております。


そして本日の朝、このブログも30万アクセスを突破しました。

最近は公私で忙しく、なかなかブログの更新も出来ない日もあり申し訳ないのですが、ブログを更新していない日でも、更新している日と変わらない程のアクセスがあります。

本当に有り難いことだと、この場をお借りして感謝を申し上げます。

話を戻しますが、鞆の浦歴史民俗資料館友の会では私は最も若い世代となっています。
そういう意味ではまだまだこれから郷土史研究などでなお一層の努力をと、あらためて誓う決意が新たに湧いてきた有意義な1日でした。





朝鮮通信使の見た「日東第一形勝」

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昨日の鞆の浦歴史民俗資料館での私の講演の柱の一つに、江戸時代、朝鮮通信使の見た「日東第一形勝」は今とはかなり異なる。というものがありました。
今回の講演では、残された絵図や古地図などを資料に実際の画像で再現しました。

先ずは江戸時代の弁天島の絵、古地図を4枚紹介します。

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現在確認が取れている江戸時代の弁天祠堂(福寿堂)を描いている絵、古地図は5枚確認されていて、もっとも古いものでも18世紀初頭のものになります。

これらの絵で共通しているのは、弁天祠堂の福寿堂が現在のような二間(3.9m)四方の二層の楼閣建築ではなく、瓦葺平屋入母屋造りで、大きさも一間(1.9m)×二間(3.9m)の小規模なものであることが分かりました。

これを元に、現在の二層の楼閣建築と比較する合成画像を作成し、講演で初公開しました。

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このように弁天祠堂(福寿堂)が小さいとかなりイメージが変わってしまいます。


別の角度からです。

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正徳元年(1711年)に客殿対潮楼からの眺めを「日東第一形勝」と称賛した通信使の従事官の李邦彦が鞆を訪れた時代は、現在のような二層の楼閣建築ではなく、小規模な福寿堂でした。
また最後に通信使が立ち寄った宝暦14年(1764年)の際も、小規模な福寿堂であったことが分かっています。

つまり朝鮮通信使は、現在のような二層の楼閣建築の福寿堂を中心とした箱庭のような風景を「日東第一形勝」と称賛したのではなく、あくまでも仙酔島、弁天島、皇后島などと海の織り成す多島美を「日東第一形勝」と称賛したのです。

現在の風景を見慣れた私達にはちょっと気が抜けたような感じにもなるようですが、現実にはほぼ合成写真の通りであると思われます。


では、現在のように弁天島の福寿堂が二層の楼閣建築となり、箱庭のような風景となったのはいつなのか?
そして誰がそうしたのか?

続きはまた後日に。




二層の弁天祠堂(福寿堂)誕生の謎に迫る

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先日の資料館での講演の続きです。
江戸時代は現在の二層の楼閣建築の弁天祠堂ではなく、平屋入母屋造りの小規模な祠堂であったことはお分かり頂けたと思いますが、では現在のような二層の優雅な楼閣建築となったのはいったいいつだったのでしょうか?

時代を遡ってみます。

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先ずは現在の祠堂は築85年、昭和5年に広島県の予算で建て替えられました。
それまでの弁天祠堂が倒壊寸前となってしまったためです。
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これは改築当時の弁天祠堂(福寿堂)の棟札、正式には地鎮祭の時の御札です。
昭和4年11月に起工されていることが分かります。
願主は広島県知事の名前になっています。

それ以前はどんな祠堂だったのでしょう。
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この写真は大正末期頃の写真です。
現在と違うのがお分かりでしょうか?

もっと拡大した写真がこれです。

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屋根は本瓦葺き、壁は白漆喰の二層の楼閣建築です。
現在のものより立派かもしれません。

この弁天祠堂(福寿堂)の登場によって弁天島を中心に、後ろの仙酔島、皇后島と、海が織り成す箱庭のようなほぼ現在と同じような風景が誕生しました。

しかし大正から昭和になる頃には、この優雅な形の福寿堂は倒壊寸前となっていました。
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この写真は昭和初期頃のものだと思われる福寿堂の写真ですが、よく見ると屋根に大穴が開いていることが分かります。
屋根もかなり波打っていて、かなり危険な状態だとひと目でわかります。
このために福寿堂も建て替えられたようです。

ではこの二層の優雅な楼閣建築はいつ建ったものなのか?

そのヒントが本尊の弁才天の厨子の中にありました。
弁才天を納めている場所の金箔を貼った板の裏面に「弁才天祠縁起」という縁起文が出てきました。

これです。

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この縁起文を活字にしたものが下記です。

辨才天祠縁起

備後國鞆の浦百貫島辨才天祠ノ濫觴ヲ尋ヌルニ其ノ由来既ニ遠ク随テ草創ノ年代サナラサレトモ
古来福徳ヲ授ケ海上ノ安穏ヲ守護スルノ霊験殊ニ著シキヲ以テ賽客為メニ趾ヲ断タス正保元甲申歳春三月当時町ノ町奉行荻野新右衛門新ニ堂宇ヲ再建シ名ケテ福壽堂ㇳ云フ
遠近ノ景仰益々深ク其後元祿九丙子歳修理ヲ始メトシ再三之レヲ修築ス而シテ最近ノ堂宇ハ實ニ萬延年元庚申歳ノ改築ニ係ハリ年ヲ閲スル僅ニ七十年ヲ出テサレトモ風雨ノ為メ朽廃殆ント傾倒ニ近カランㇳセシカ
偶々昭和三年冬百貫島カ内務省名勝地ニ編入サルゝニ及ヒ廣島縣ハ特ニ萬金ヲ投シ式ヲ桃山様式ニ採リ二層朱欄ノ堂宇ヲ建立セリ于時昭和四己巳歳冬十月ノコト也然ルニ本尊ノ損傷甚シキヲ憂ヒ之レヲ修理セシニ補工技ヲ缺キ為メニ佛徳ノ尊巌ヲ失ヒ奉ラントセシカハ信者相謀リ堂宇ノ修築ㇳ共ニ河内ノ國ヨリ奈良ニ移ラセ給フ由緒深キ古佛ヲ勧請シテ之レヲ奉祀ス其尊様ヲ拝スルニ誠ニ顔容端巌ニシテ八臂荘厳ノ霊像ナリ而シテ従来ノ佛体ハ之ヲ秘佛トシテ別ニ堂内ニ安置シタリ爾云

昭和五年庚午歳五月八日
                
信徒総代 森田友十郎 益田兼松 
鞆町長 高橋泰一  桑田貞治郎
後援者 鞆校長 高山秀雄  粟村茂吉

これによると弁天祠堂は正保元年(1644年)に荻野重富が再建して以降、
元禄9年(1696年)の修理をはじめとして再三修理したとあります。
そして注目すべき記述に「最近の改築は万延元年(1860年)」とありました。
昭和4年の福寿堂改築の棟札の昭和4年(1929年)を遡ること69年前の話です。
元々、波浪暴風が激しく建物には過酷な場所である弁天島なので、頷ける年代なのですが、弁天島を調査した我々資料館友の会の調査隊には、なぜかこの万延元年(1860年)改築に疑問を感じました。

なぜか??

それは数少ない弁天島に残る建造物など三つにある共通点があったからです。

これです。
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これら三点の共通することは下記の通りです。

1.すべて慶三年(1867年)の寄進である。
2.大坂屋は関町の商人で、江戸時代を通じて弁才天の世話人である。
3.東濱の仲使(港湾労働者)は主に廻船問屋の大坂屋の仕事をしている者が
  多くいた。

実はこの弁天島には明治以前のものはこの三点の他には百貫島伝説に登場する九重塔婆  文永8年(1271年)と、伝 沈 惟敬(しん いけい)石碑 ※文字が読めないため年代不詳の五点しか存在しません。

つまりこれだけ慶応三年に寄進物がそろっているということは、逆に考えれば慶応三年にこの弁天島で大きな出来事があったという可能性が限りなく大きいということです。

しかも寄進されているものは弁才天を乗せるための台座である須弥壇、お参りする人の為に設置する百度石と石燈籠です。

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もしも万延元年(1860年)に福寿堂が改築していたなら、これらの寄進物は改築7周年記念の物となってしまいます。
これはどう考えてもおかしいことで、やはり祠堂の改築という大きな出来事があったからこそ、多くの寄進物が存在すると考えた方がはるかに自然です。

祠堂が二層の楼閣建築となったのは、最初は花火が既に天保時代から行われていたので、天保、弘化、嘉永などの1830年代から1850年頃と勝手に想像していましたが、それを裏付ける史料は全く発見されませんでした。
弁天島に残された史料から推測する限りはやはり慶応三年(1867年)という結論に達しました。

そしてこの優雅な二層の楼閣建築の福寿堂を建てたのは大坂屋平左衛門と推測しました。

なぜか?

それはまた後日に。

現在の「日東第一形勝」の風景を作ったのは誰?

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先日の鞆の浦歴史民俗資料館での私の講演内容の続編、第三弾です。

今回は現在の風景とほぼ同じ、弁天島の優雅な二層の楼閣建築の祠堂を作った人物の探求です。

弁天祠堂(福寿堂)が現在の福寿堂とほぼ同じ形の二層の楼閣建築となったのは幕末の慶応三年(1868年)であると推測しましたが、福寿堂を改築したと思われる人物が残した史跡が今も鞆にあります。

これです!

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そうです。対仙酔楼です。

江戸時代後期に作られた二階が客殿となっているこの門楼は、かつての大坂屋の屋敷の門楼です。
この対仙酔楼という名前は、かの頼山陽が命名したことでも有名です。
大坂屋は、商いで稼いだ膨大な財力で多くの文人、著名人をこの対仙酔楼に招いていました。

大坂屋にとって、この対仙酔楼から眺める景色をさらに美しくすることは、よりこの対仙酔楼の価値、そして自分自身の名声を上げることに繋がったのです。

大坂屋は廻船問屋であり、また有名な鞆酢の醸造販売を行っていた鞆一の大商人でした。
大坂屋がいかいに大豪商であったかは以下の写真を見て頂ければ容易に理解できると思います。
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決定的な証拠は大坂屋が建てたこの対仙酔楼の門楼から福寿堂を拝めば一目瞭然です。

こんな角度で見えます!

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福寿堂の真正面より若干だけずれて、福寿堂がより立体的に見える最も見栄えのする場所です。

この弁天島の福寿堂は、ここ大坂屋の対仙酔楼から拝む姿が最も映えるようにちゃんと計算されて作っているのが容易に推測できます。

現在の福寿堂も、慶応三年に建てられたと思われる福寿堂とほぼ同じ位置、角度なので朝日の際のシルエットなどはほぼ変わらないと思います。

つまり、弁財天の世話人をしていた関町の商人であった大坂屋が、自らの利益の為に福寿堂を現在のような優雅な姿にし、自分の客殿からの眺めをより一層美しく、まるで箱庭のような姿にしたのです。

だからこそ、慶応三年の寄進物は、弁財天を安置する須弥壇は大坂屋の当主 平左衛門が寄進し、百度石や燈籠も大坂屋と深く関わりのあった仲使が寄進したのです。

しかし大坂屋も明治という大きな時代のうねりには勝てませんでした。

そしてついに明治三十三年、大坂屋は所有していた十三棟の屋敷、土蔵、土地の全てを売却し、消滅してしまいました。

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これはある旧家が所有している大坂屋 上杉平左衛門と買主が交わした譲渡契約書の写し(副本)の一部です。

実は弁財天や弁天島に関する資料が極端に少ないのは、この大坂屋がその役割の中心を果たしていたのは資料館友の会でも、また鞆の郷土研究者でもほぼ共通した意見です。
それほどまでに大坂屋が持っていた財力は絶大だったのです。

しかしながら鞆にはもはや大坂屋も、そして一族もいません。

本当の歴史の真実を知っているのは、今は廃寺となっている鞆の旧勝音寺の境内に眠る大坂屋の一族だけかもしれません。

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  (正法寺と慈徳院の間にあった旧勝音寺の墓地内に残る大坂屋一族の墓)



百貫島伝説を裏付けた巨大ザメ

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現在、鞆の浦歴史民俗資料館で開催されている「鞆奉行 荻野重富と百貫島伝説」で、その昔、武士の落とした刀を海の底から拾い上げようとして鱶に足を食われてしまった海士の伝説が伝わっていますが、昭和51年にまるでその伝説を裏付けるような大ニュースがありました。

私の歳以上の鞆の方ならきっと記憶があると思います。

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走島沖の定置網にかかった巨大サメです!
当時は新聞にも載りましたよね。

この貴重な写真は鞆の浦歴史民俗資料館友の会の大濱さんが撮影したものです。

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あまりに巨大で、大人を一気に二人くらい楽に丸呑みできるような巨大なサメでした。
体長は6mくらいはあったと思います。
この巨大サメを見た時、鞆に古くから伝わる百貫島伝説を誰もが信じて疑わなかったと思います。

サメの寿命は200年以上と言いますし、今もこんな巨大なサメが弁天島の傍にいるかも、、、

考えただけでもぞっとしますね(汗)

話は戻り鞆の浦歴史民俗資料館で開催されている「鞆奉行 荻野重富と百貫島伝説」は11月23日(月・祝)までです。

この写真パネルも展示しています。

ぜひ足を運んでみてください!





資料館 古文書部会

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実は、、、、


鞆の浦歴史民俗資料館友の会の古文書部会は、、、


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こんな贅沢な景色の部屋でいつもやってます〈笑)


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最近は、、桝屋文書ですが、、

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脱線たたありです(笑)


敷居のないバリアフリーの古文書部会、、、誰でも参加出来ます!




明日は第三回鞆の浦駅伝

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明日は第三回鞆の浦駅伝大会ですね。

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今年も撮影の記録係のまとめ役を仰せつかりました。

今年は私のほか三名、計四名の撮影隊で臨みます。

前回までは写真のみでしたが、今回は一部、動画の撮影も考えています。

いい撮影が出来れば良いですが、、、

昨年の第二回のダイジェストビデオはこちら




鞆の浦駅伝 ダイジェストビデオ作製中!

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第三回鞆の浦駅伝大会も無事に大成功で終わりました。

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参加されたランナーの皆さん、そしてこの大会を支えた多くの関係者方々、お疲れ様でした。

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只今、感動のダイジェストビデオを製作中です。

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今回のダイジェストビデオは写真だけでなく動画も織り交ぜ、よりドキュメント風に仕立てています。

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今しばらくお待ちを!!!

鞆の浦駅伝 ダイジェストビデオ完成!

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11月15日に開催された第三回鞆の浦駅伝大会のダイジェストビデオが完成しました!!

今回は初めて一部で動画も取り入れ、よりドキュメント映画風に仕立てています。


ぜひご覧ください!!


すべては笑顔のために

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今回の鞆の浦駅伝大会で、私が撮影した写真の中で一番のお気に入りはこの写真でした。


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表彰式で、うれしさにトロフィーをみんなに掲げる少年と、照れながらも喜びを隠しきれずに笑顔が覗く少年の姿。

この笑顔の為に、250名ものスタッフと沿道で応援する多くの人々が支える鞆の浦駅伝大会。

彼の笑顔は私にとっても最高のプレゼントでした。


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